「わかりました」
「え」
「二度と会いません」
穂の母親が目をみはっている。あまりにも俺があっさりしていて驚いたのかもしれない。
「受験終わったら、俺、家出て行きますから」
「なんですって?」
「一人暮らしするんです。ここにはもう帰ってきません」
穂の母親が息を吐き出す。心底ほっとしたんだろう。強張っていた表情が明らかに緩んだ。俺と穂との間に物理的な距離があくのを歓迎していた。
「……じゃあ、この紙にサインしてほしいんだけど」
穂の母親が、再び表情を緊張させて一枚の紙を取り出してテーブルに置いた。
そこには、印刷された文字で。
【私、高上誠二は、二度と秋川穂に会いません。連絡も一切取りません】
俺は、その一文を他人事のように見つめていた。
ボールペンを差し出されて、受け取る。
高上誠二、と名前を書いた。
それもどこか他人事だった。
指先が微かに震えていたのは、部屋が寒かったせいかもしれない。
納得した様子の穂の母親を送り出した後、俺は台所へ向かった。
インスタントラーメンの袋を取り出して、沸騰させた湯に麺を放り込む。
俺の手は、体は、いつものように動いた。たった一瞬前の重苦しい雰囲気などなかったように時間が流れていた。
食べられるものに仕上がったラーメンをダイニングテーブルに置いて、座る。
一口啜った途端、ぼたぼたとスープを跳ね上げる雫に驚いた。
俺は、泣いていた。
「っ」
わけがわからなかった。
勝手に腹の奥から嗚咽が上がって、胸で鞴のような音を立てる。
「……穂」
無意識に口にしたら、喉奥がぐっと鳴った。とっさに手で目を覆う。
――穂は、俺のことが好きだったのか。
俺を呼び止め、家に来ないねと話しかけるその表情が傷ついていたのを何度も見てきた。
それが好意であることを願っている自分がいた。未練がましい自分の気持ちを意識する度、自分はどうしようもない悪のような気がした。
俺は、穂が好きだった。
何の音もない生活の中で、唯一の光だった。ためらいなく怖がることもなく、俺を受け入れ兄のように慕い、そして好意を持ってくれた。
俺は救われていた。諦めを抱えていた中、穂は俺に誰かと一緒に過ごすことの喜びをくれた。ここに居ていいんだと言ってもらえるようで居心地が良かった。
……俺はそんな穂を汚して、傷つけて、逃げた。自分がひどく汚い存在に思えた。
それでも穂は、俺に声をかけ続ける。
なのに俺はあいつに何もしてやれない。応えることも突き放すこともできないまま、ずるずる気を惹き続けている。穂の母親の顔色を窺って、最後まで逃げるつもりでいた。穂のことなど考えもせずに、二つ返事にもう会わないと約束をしたのがその証拠だ。
「なんなんだ、俺は」
生きている価値はあるのか――?
涙が指の間を溢れていく。それはすぐに冷えて体温を奪っていった。
大学に進み、街を離れて一人暮らしを始めた俺の私生活はムチャクチャに荒れた。
性にだらしなくなり、誰でも良くなった。男にも手を出してみた。
でも、誰を抱いても満たされない。
当然だ。ずっと穂の代わりを探していたんだから。
◆
「誠二兄」
悪夢だった。……穂にとっては。
俺にとっては甘美な現実だった。
十八になった穂の制服姿は背徳的だった。小さかった背は伸びて、ブレザーが似合っている。
「俺、誠二兄が好き」
不意の言葉に体が痺れた。
この二年、会わない間にも俺は穂の心も体も縛りつけていたんだという事実に眩暈がするようだった。
遊び慣れた下半身はすぐに反応しそうになる。暗がりに連れ込んで目の前の清い体を貪りたい衝動に駆られた。
俺はどうしようもないところまで転がり落ちていた。
「で?」
欲望を抑え込んで出した声は思い通りに穂を困惑させた。
今頃そんなことを言って。人の気も知らねえで――。
びくびくしている穂に、心の中で舌なめずりする。
「……え?」
「え、じゃねーよ……」
わざとらしく言いながら煙草を取り出してくわえる。歯先でフィルターをいやらしく噛むと、穂の濡れた視線を感じてゾクゾクした。
――早く、堕ちてこい。
「目ぇうるうるさせて妙なこと口走ってる理由を説明しろって」
「だ、だから、誠二兄のこと、が……って……」
「ぼそぼそ言うな、聞こえねえ」
――もっと言えよ。でかい声で。
「せ、誠二兄、好きな人いる? 彼女は?」
……どうだっていい、そんなこと。
「要するに、俺と寝てみたいの」
「そ、そうじゃなくて」
「違うのかよ」
「あ、いや、違わない、けど――」
もう俺の性器は熱くなりかけていて、早くその体を抱きたかった。
なにもかもどうでもいい。ここで会ったおまえが不運だったんだ。
はやく、ここまで堕ちろ――そう思った瞬間、ふいに穂の目に涙の膜が張った。はっとして、頭の芯が冷える。
……俺は何を考えてる。本気でこいつをどうこうするつもりなのか。
動揺を隠す為に、色を抜きすぎたせいで痛んだ髪を掻き上げた。
「泣くんじゃねえよ、俺が泣かしたみてえだろ」
「ご、ごめん」穂が俯いたまま鼻をすする。
俺の頭の中に、穂の母親に誓った言葉が回り始めた。
『二度と会いません』
破った。たった二年で。
今は穂にどうやって俺を嫌いにさせるか、そればかり考えていた。最低になった俺をどうやってわからせたらいいのか、わかりやすい言葉を探した。
俺が口を開くより一瞬早く、穂が切り出す。
「俺、誠二兄と、つきあいたい、んです……」
――そんなの、できるわけがねえんだよ。
「誠二兄のことが好きだから」
俺達の間に、そういうおままごとみたいな感情は通用しない。それをわからせなきゃいけなかった。穂の純粋でまっすぐな眼差しが無性に憎らしい。
本当に。人の気も知らないで。
「ちゃんとフってもらえれば、これ以上困らせるようなこと言わないし――」
「いいけど」思わず口に出ていた。
「……へ?」
「ヤるだけなら、おまえ、まあ可愛いし。できなくもなさそうか」
本音だった。穂なら抱ける。むしろ抱きたい。抱いてボロボロにしたい。
ずっと前から今の今まで。女みたいに啼かせてイかせて、ぐちゃぐちゃにしてやりたい――この気持ちは1ミリも薄れていない。
「言っとくけど俺、男にマジにならないから」
――嘘だ。
俺は暴走しそうな気持ちを持て余して、どん底に転がり落ちるほどこいつを――いらいらと煙を吐き出す。
「それでもいいなら、相手してやるよ」
……嫌いになれよ。
誠二兄は変わった、幻滅したって顔して。ここからいなくなってくれ。
穂の顔を見つめた。俺の本音は、頭で考えた理屈と逆に穂が頷くのを待っていた。
それでもいいって。誠二兄が好きだって。
――言えよ。
「い、いい! それでも!」
絶望と狂喜がいっぺんに来た。わざと視線を逸らして煙草をきつく吸う。
「重いのはムリ。俺、女ほしくなるし。束縛されんのとかすげえ嫌いだから」
「わかった! 束縛しない!」
「体だけな。気持ちイイことしかしねえ」
「せ、誠二兄が、それがいいなら!」
バカだ、こいつ。セフレになれって言われてんだぞ。わかってんのか。
――そんなに俺が好きかよ。
ジンジンと下腹が疼く。口では突き放すようなことを言ってるクセに下半身はもう準備万端になっていた。
「俺、男相手はゴム使わないけど」
「い、いいよ」
「……俺が病気持ってたらどーすんだよ」
「え、あ……」
「アホかおまえ」
適当なことすんなよ、と言いかけて舌打ちする。口が裂けても俺が言えないセリフだ。
自分の一部が、穂と居た頃の自分に戻りかけている気がした。もう戻れるわけがないのに。
「でも、生じゃなきゃシてくれないんだろ」
わざと卑猥に言って背伸びする穂の口に、昂ったものを突っ込みたくなる。
本当は大事にしたくてしょうがないのに。
おまえが女だったら……いや、きっとそういうことじゃない。関係ない。そもそも出会ったのがマズかった。
俺がこの街に来なければ。おまえが近くに住んでいなかったら。
もっと……違う風に会えていたら。
「……おまえ、俺のこと大好きなのな」
俺の言葉に声もなく小さく頷いた穂を見たら、不覚にも視界が滲んだ。髪を掻き上げて誤魔化す。
穂に嫌われる自信があった。穂を適当に扱える自信もあった。
――俺のせいじゃない。
飛び込んできたのは穂だ。おまえが選んだんだ。俺のせいじゃない。
俺みたいなろくでもない人間に身を任せようとしてるのは、おまえだ。
だから俺は思う存分傷つけてやる。俺が傷ついたように。おまえの代わりをひたすらに探して、絶望して、転がり落ちた俺のように。
おまえも――。
「……今日、俺の家来るか」
穂が体を強張らせた。緊張の中に見え隠れする、嬉しさと戸惑いの表情。
もっと俺を見ろ。俺のことだけ考えろ。不安で、身が切られそうなほど悶えて眠れなくなればいい。
今までの俺の苦しみを、味わえばいいんだ。
◇ ◇ ◇
目を覚ますと、辺りは薄暗かった。
……昔の夢を見た。あの頃が一番、俺が生きていた頃かもしれない。
生命の気配もなく、静まり返った空気が頭の中を無口にする。
公園のアスレチックの中で転寝したせいで、体中が痛い。
金はあった。ビジネスホテルでもラブホテルでも、泊まろうと思えばできた。
でも、自分を痛めつけたかったからここにいる。そうしなければ居られないほどの後悔が押し寄せていた。
……朝まで部屋に居ることはできなかった。
気を失うように眠った穂を飽き足らずに犯した後、しばらく動けなかった。
体の中から退く時、微かに上擦った穂の寝息にたまらなくなった。
その首に手をかけた。殺したかったわけじゃない。
――一緒に死にたかった。
臆病な俺が力をこめられるはずもなく、その首筋を撫でて吸いついて離れた。
昨夜は悦かった。たまらなく悦かった。体が溶けるかと思うほどだった。
男だとか女だとかは、正直、関係ないとさえ思った。
穂とのあのセックスで死ねたら、どれほど悦かっただろう――そんな暗い感情に身を委ねながら、起きる気配のない穂を横目に手早くシャワーを浴びて部屋を出てきた。
愛してる、なんて一生言うつもりはなかった。最低なことを言った。
ぐしゃぐしゃと髪を掻き回す。
最初から俺は間違えた。抱いちゃいけなかった。ひとつも希望を残しちゃいけなかった。
俺といるとボロボロになる。最低で無責任で、誰とでもヤれる最低な男だと穂にわからせるつもりが、俺の方が溺れてしまっていた。
俺はいつもそうだ。口では離れろと言うのに、結局、穂が傍にいることを望んでいる。
「……なんであの時、街に帰っちまったんだろーな……」
期待してたのか。穂に会えるのを。
あの不幸な再会の日に始まった悪夢は、甘く手離しがたく、苦しく、溶けそうで快感の塊だった。あっという間に穂の体が離せなくなって、抱いても抱いても足りずに首輪で繋いだこともある。
でも、それもすぐに飽きた。抱いてる時間の方がまだ満たされたからだ。
絶対に手に入らなくても、抱いてる間だけは穂を自分のものにできた。
穂がイクのが、俺の快楽だった。
穂が泣けば、それが証拠だった。
穂の全てが、俺の存在を肯定していた。
穂を抱く時間は暗く惨めで、触れてはならないものを汚す快感に満ちていて俺はますます最低な人間になっていった。
――それも、もう終わりだ。
這って体を起こす。子どもの大きさのアスレチックの出入口は窮屈だった。
どこに向かっているのか自分でもわからなかった。引きずる足は重く、泥がまとわりついているようで、このまま地面に俺を引き込んで消してくれないかと願った。
どれぐらい歩いただろう。
朝陽が辺りを照らし始めて、俺は、その光から逃れるように道を歩いた。
足元を滔滔と水が流れる橋の上に差し掛かって、吸い寄せられるように欄干に縋る。
綺麗と言えない東京の川の流れは、俺に似合っているように思えた。
黒い川面が朝の陽を受けて微かに輝く。
遠くの空が夜明けを迎えようとしていた。
声を、振り絞る。
「愛してる。許してくれ」
さほど大きくない声は、それでも朝の冷えた空に舞った。その言葉が思ったよりも温かく胸に広がる。
全て、赦されたような気持ちになった。
俺は、大きく手を広げて。この穢れた全てを捧げるように。
夜明けの、0の空気に身を投じた。
初出 2012/03/03
修正 2019/12/22